ご由緒・ご祭神
ご祭神
倉稲魂命(ウカノミタマノミコト) 衣食住、商売繁盛の神(稲荷神)
日本武尊(ヤマトタケルノミコト) 難局打開、武運長久の神(大鳥大神)
市杵島姫命(イチキシマヒメノミコト)
田心姫命(タギリヒメノミコト)
湍津姫命(タギツヒメノミコト)
学芸芸能、美の神(弁才天、宗像三女神)
ご由緒

十番稲荷神社(じゅうばんいなりじんじゃ)は、もと末広神社(旧坂下町鎮座)および竹長稲荷神社(旧永坂町鎮座)です。両神社は、昭和20年4月15日に戦災に遭い焼失、昭和25年6月復興土地区画整理により、両社境内地を現在地に換地、隣接指定されました。その後両社は合併して社名を十番稲荷神社と改称し、平成9年3月29日、現社殿に建て替えられました。

<末広神社由緒>(すえひろじんじゃ)

慶長年間(1596〜1615年)に創建され、元禄4年(1691年)には坂下東方雑式に鎮座していましたが、同6年永井伊賀守道敏が寺社奉行の時、坂下町41の社域に遷座されました。往古より境内に多数の柳樹があり、「青柳稲荷」と称されていましたが、後にその中の一樹の枝が繁茂して、扇の形をしていたことから「末広の柳」とよばれるようになり、社名に冠されて末広稲荷と称されました。その後、明治20年4月に末広神社と改称されました。

<竹長稲荷神社由緒>(たけちょういなりじんじゃ)

創建は、一説には和銅5年(712年)とも、弘仁13年(822年)に八咫の神鏡を以て武蔵国豊島郡竹千代丘(今の鳥居坂上)へ稲荷大神を勧請(※)したとも伝えられています。稗田神社(延喜式内社)であるとも伝えられており、少なくとも10世紀初頭には鎮座していた古社と考えられます。その後、弘安2年(1279年)に鳥羽院の子孫が社殿を再建し、大神より翁の面と陰陽の鍵を授かったという伝説があります(面と鍵は戦災で焼失)。元々は竹千代(たけちよ)稲荷と称していましたが、江戸時代になり、徳川家光の幼名・竹千代を憚り竹長(たけちょう)と改めました。

 ※勧請(かんじょう):神様の御分霊を遷し迎え鎮め祀ること